第1章 私の社内駅伝40年
(1)新入社員時代
1975年からの新入社員時代。いきなりの社内駅伝との縁は、直属上司のKさんからのお誘いだ。同期の新人が10人はいたが、練習で最後まで残ったのは大鹿さん一人だったと同期の一人から聞いたが、あまり記憶にない。ただし、Kさんとは昼休みのグランド練習時に、2周でKさんを抜いたら、「3周だったら絶対負けない」と言われて驚いたことだけ覚えている。そのころも駅伝と同じ距離だったら自分はKさんに勝てなかったはずだ。
新人の1975年、寮の同期と草野球チームを作った。集まったのは電算部技術系の入社3~5年目だ。初代監督に私が任命されてしまった。コーチには年下の先輩で高校時代野球で腕をならしたKさんを呼んできた。野球は大好きだが上手くはなかった私は、練習に集まると必ずグランドを何周か走ったあと、準備体操を熱心に指導した。膝の屈伸、伸脚、身体の回転、・・誰かが「駅伝体操だ」と言った。なんでこれが駅伝体操なの?と思った。野球は入社してから15年続けてやめたが、駅伝のほうは40年も続くことになった。
1979年からあしかけ6年在籍した東富士研究所。研究所は社外秘でテレビに公開されることは想像できなかった。2016年の年末に、テレビ放映された「夜の巷を徘徊〜マツコがクルマの開発」で研究所を見ることが出来て、懐かしかった。退職前の2014年に見学できたドライビングシミュレータと衝突試験場もしっかりと紹介されていた。
駅伝大会に向けて昼休みに走る選手らを章男社長が紹介していた。在籍時、昼休み走る選手はそんなに多くなかったが、本番前には、予選含みで、東富士技術電算課(以下技電課)では、選手選考兼ねて昼休みに、一度は皆走った記憶がある。当時のことを覚えていた後輩のM君によると私から技電課のメンバーに東富士地区の駅伝の1~2か月前に、突然次のような誘いがあったとのことです。
「駅伝に出よう! 」当時の技電課は男子社員の数も少なく、研究所のメインイベントに出るメンバーが集まるのは現実的に難しく、メインの前に企画されたミニ駅伝(15区間(1km/1区間で研究所正門からスタートし、所内を1周して正門に戻ると3kmを5周回る)にエントリーしようということ。
男性が3人以上はいた記憶ですが、半分以上は女性陣でした。 それでも15人集めるのは無理だったので、私が一言、「俺が3区間走るから、M君とK君も2区間走って」。2017年のM君曰く「大鹿さんが3区間走るということで、断れる設定ではなく、引き受けました」「最初の1kmをかなり全力で走ってあと、15~20分でもう次のランナーの順番が回ってきて疲れなどとれるわけもなく、2回目はほぼジョギング状態だった」
M君は「練習不足&力不足ですね。大鹿さんは、3回走ったあともまだ物足りない雰囲気だった。」と思い出してくれたが、3キロといっても1キロを細切れに3回走るのはそんなにきつくなかったことだけははっきりと覚えている。
「夜の巷を徘徊〜マツコがクルマの開発」テレビ放映の続きです。社長曰く「 みちがクルマをつくる」テストドライバーは、ばらつきなく走れるかが大事!
クルマと問診して 3万点の部品の何処に問題があるかを発見!
「凄腕技能養成部」ベテランの技能を若手に伝承!おっとこれは何処の部署も共通だったね〜
「モータースポーツ開発部」10月の世界耐久で優勝してリベンジ!
食堂は サラダバーありで、ヘルシーメニュー。これは3年前のホンダさんの食堂も同じだったが、自分が在籍時の研究所の食堂に比べれば、雲泥の差でカイゼンされていると感動。
(つづく) 大鹿 秀正
